シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について epubダウンロード
シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について
によって 芦田宏直
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シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について epubダウンロード - 内容紹介 諸悪の根源、「教育改革」。 大学教育の停滞の原因はシラバス(授業計画)の欠如にあった。 教育学も文科省も踏み込めなかった大学再生の道標。 「教育改革」「入試改革」が進めば進むほど、教育格差と格差社会は拡大する。そのすべての原因は、中曽根臨教審から30年も続いている〈知識〉軽視の教育施策にあった。従来の教育改革からも、教育学者からも、置き去りにされてきた「シラバス」改革にこそ、空転し続ける大学改革を再生させる鍵がある。〈知識〉の復活、大学再生を通じて、格差の流動化を訴える画期的論考。大学論のエンサイクロペディア誕生! 「今日の教育の現状を考える上で、シラバス(授業計画)に対する大学や教員の態度をみることは決定的なことだ。文科省の諸施策も含めてあらゆる大学改革が頓挫するのは、シラバスに対する関心が大学内外において薄すぎるところから来ている。/私のシラバス論は、一九九〇年代に始まった〈知識〉論、つまり「知識も大切だが、態度や意欲も、そして人間的な魅力も大切」と言って、一度もその「も」の意味が問われなかった〈教育〉の在り方を再検討するためのものである」(まえがきより) 【目次】 まえがきにかえて──シラバス論が書かれなければならなかった四つの動機について ■第一章一九九一年「大綱化」以降のシラバス 第一節 カリキュラム自由化とシラバス 第二節 カリキュラムの反対語としての講座制──大学におけるカリキュラム形成の阻害要因について *1 中曽根臨教審と大綱化について *2 二〇〇八年の中央教育審議会答申「学士課程教育の構築に向けて」における転回 *3 「教養教育」と「多様な学生」、あるいはカントの『諸学部の争い』について *4 反カリキュラム主義としての「講座制」の起源について *5 「学長ガバナンス」としてのシラバス展開、あるいは「ファカルティ」の混乱について *6 〈概論〉は若手教員では担当できないということについて ■第二章「概念概要」型シラバスと「時間」型シラバスと 第一節 授業概要が授業回毎に詳細化する意義──概念のインカネーションとしてのコマシラバス 第二節 教育=学習の目標開示としてのコマシラバス 第三節 コマシラバスと授業時間の設計──教科書と教材との違い、あるいは概念を時間化するということ 第四節 コマシラバスの具体的な記載例──「主題細目」と「細目レベル」表示のあるシラバス 第五節 パワーポイントプレゼンはなぜ教育的ではないのか 第六節 受講前・受講後フォローとしてのコマシラバス 第七節 「見る」シラバスから「使う」シラバスへ──メタ教材(教材参照体系)としてのコマシラバス 第八節 授業評価・授業改善のプラットフォームとしてのコマシラバス──思惑の差分を意識することの〈双務性〉について *7 シラバスのインカネーションとしてのコマシラバスについて *8 「初回配布用」シラバス、およびダメなシラバスの事例について *9 単位認定権(成績評価権)について *10 シカゴ大学以来の大学「出版局」とコマシラバスについて *11 レーザーポインターが話者の自己満足であることについて *12 〈参照〉とは何か─「参照指示性」について *13 概念概要的なシラバスではカリキュラムが作れないことについて *14 コマシラバス書式の事例紹介 *15 〈教材〉について *16 「インセンティブ・ディバイド(意欲の階層差)」論とシラバスについて *17 PISAの「制御方略」としてのコマシラバスについて *18 月並みな誤解に充ちた〝契約〟文書としてのシラバス解説事例 ■第三章コマシラバスによるカリキュラムの構築 第一節 単位制科目における深化の時間性 第二節 小テストの累積では問えない科目の〈全体〉 第三節 カリキュラム・リテラシーとしてのコマシラバス 第四節 教育と研究との接点としてのコマシラバス 第五節 カリキュラム体系の一部としてのアセスメント・ポリシー *19 〈単位制〉の起源、あるいは〈カリキュラム〉と〈単位制〉との関係について *20 カリキュラム意識の現状について *21 コマ展開における〝踊り場〟〝バッファー〟コマの必要性について *22 実習授業における「行動主義behaviorism」について *23 「講義(lecture)」の歴史、あるいはサンデルにおける〈講義〉と〈演習〉との関係について *24 履修判定指標の事例 *25 三ポリシー(四ポリシー)の日本語表記について *26 大綱化以降の「観点別評価」の問題点について *27 二種類のアンケート(期中アンケートと期末アンケート)について ■第四章「コマシラバス」という言葉と一〇年後のシラバス論 第一節 教員の自己管理のためのコマシラバス 第二節 生涯学習的なコマシラバス 第三節 一〇年後のコマシラバス論──試験センターの創設と科目数の削減 第四節 「それでもシラバスは詳細化する意味がない」という教員のために *28 学校派と生涯学習派の対立、あるいは、〈学ぶ主体〉について *29 資格の専門学校について *30 Docendo discimus、あるいはフンボルト理念について *31 ラカンの「無知は無知として実り豊かなもの」ということについて *32 学生アンケートはFD委員会マターではないということについて *33 新卒「即戦力」論の誤りについて *34 教員の「単位認定権」について *35 「個性重視(多様性)の教育」の問題点と「標準性」の問題について *36 「科目数の削減」の諸課題について *37 〈知識〉と〈暗記〉とAIデータベースについて *38 PISAの〈記憶方略〉〈精緻化方略〉〈制御方略〉について *39 教育におけるコンピテンシーについて *40 メタトークについて─デリダ、カント、ハイデガー *41 ノートの「斜め書き」の意味について──〝わかる〟ことの矛盾、あるいはクリプキの「飛躍」について ■第五章終わりにかえて──新しい人材像とシラバスとカリキュラムと 第一節 ハイパー・メリトクラシー論と大学の「機能別分化」論の隘路 第二節 カリキュラムの文化性こそが格差社会を相対化する *42 「幽霊」「亡霊」としての「コミュニケーション能力」について *43 大学の「機能的分化」と「種別化」について *44 「中曽根臨教審」「生涯学習」「ゆとり教育」について *45 「印刷術」と「紙試験」と世襲制の解体、あるいは藤原家の「家職化、家産化」について *46 人物評価入試について *47 メリトクラシーについて *48 「家庭教育」とeducationの語源学について *49 「意欲の格差」(苅谷剛彦)と学校圧について *50 カリキュラムの文化性について *51 科目数の削減と八〇単位必修カリキュラムについて *52 専門学校の必修科目体制、および専門学校、専門職大学、大学のクラス規模の問題について *53 メンバーシップ型人材以後、あるいはフロント=ラカン的な「ωシステム」について *54 ヴィーコの「知恵の華」について 附論1大学入試改革と人物評価主義について 附論2学校教育における〈キャリア教育〉とは何か──芦田宏直×本間正人トークセッション あとがきにかえて──往相・還相のコマシラバスについて
内容(「BOOK」データベースより)
シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生についての詳細
本のタイトル : シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について
作者 : 芦田宏直
ISBN-10 : 4794971621
発売日 : 2019/12/9
カテゴリ : 本
ファイルサイズ : 20.83 (現在のサーバー速度は29.3 Mbpsです
以下は、シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生についてに関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
書名で、もうこれは専門家が読む本だなと、決めつけ手に取らないのが普通だと思う。私がこの『シラバス論』を読んだ理由は、著者の前作『努力をする人間になってはいけない』に書かれていた「時計少年」の話に感銘したからだ。この本は一字一句、一行一行、努力して読むと、評価が低いレビューのように「読破できなかった」がオチだ。だから自分の関心にそっての拾い読みでまったくいい。本を読むのは、律儀に「読破」が目的ではないのだから。どこを拾ったのか具体的に書く。拾い読みした250頁の10行で、私はこの書物の時間にいつまでもいたい、と思った。それは一気読みとは真逆だ。「たとえば、私が教壇に立つ。あるいは表現者としてものを書く。語る、教える。そのためにコシラバスを書く。それは、わかってたまるかということと、なんでこんなに簡単なことがわからないのか、という矛盾の中に身を置くことだ。教壇に立つまで何年も何十年も研鑽を積んだ者が語る内容について、そんな研鑽なしに教室に座る大学生、しかも若い学生たちに「先生の言うことはよくわかります」と言われて「それはうれしい」と手放しで喜べるだろうか。一方、どんな難しいことでもわかりやすく言うためにこそ専門性の研鑽はあるのだという意味で言えば、「まったくわかりません」と言われるのも腹が立つ。「こんなにわかりやすく話しているのに、〝わからない″とは何事か」と。表現者は「わかる」と言われても「わからない」といわれても居場所がないところにいつも立たされているわけだ。つまり授業が″わかる″というのは一つの矛盾なのである。」18歳のころに手塚治虫にマンガを教わった。マンガの専門の頂点に立った手塚治虫は、マンガの「すそ野の広がりと入口(入門)」がよく見えていたにちがいない。それは手塚治虫が、マンガという専門を脱していたからだ。芦田直宏『シラバス論』を読んで、そのことが了解できた。
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